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平成22年4月16日 校正すみ

駆逐艦梨の戦闘

左近允尚敏

梨に搭載されていた12.7CM高角砲 梨に搭載されていた魚雷発射管

戦後引き上げられて護衛艦となった[わかば](元駆逐艦梨)

 昭和20年を迎えた日本は経済の面でも軍事の面でも末期的症状を示していた。前年夏にマリアナ諸島を攻略した米軍はサイパン、テニアン、グアムに大飛行場群を建設し、11月からB-29による日本本土の爆撃を開始しており、国内は石油も食料も兵器製造に必要な材料も極度に不足していた。

 石油を含む重要物資を南方あるいは大陸から運ぶタンカーや輸送船の多くは沈められ、戦後分かったことだが、アメリカの潜水艦は目標が殆んどなくなったため、多くが損傷して墜落または不時着したB-29搭乗員の捜索救難に当てられていた。

 数ヶ月前まではどうにかまだ「健在なり」と言えないこともなかった連合艦隊水上兵力は、前年10月から12月までのフィリッピン周辺の海戦で壊滅的打撃を受けていた。空母、戦艦、重巡、軽巡のほとんどが沈められたか、傷ついたかしている。今や日本の上空でもアメリカの爆撃機や空母機が飛来すれば制空権は彼らに握られていた。

 昭和20年の海軍が最早組織的な作戦を実施する能力を喪失していた事は、大和の死場所とも言うべき4月の沖縄海上特攻作戦に僅か軽巡1、駆逐艦8しか付けられなかったことからも分かる。

 20年1月、私は呉でじりじりしていた。前年の1125日に乗っていた熊野が沈み、12月5日に呉に着いて残務整理に当たったが、年が明けても次の配置の発令が来なかった。二河町に畠山耕一郎中将(兵39)の留守宅があり、私はよく泊めて頂いていた。

 長男の博さんは軍医中尉で神奈川県の戸塚、次男の信さんは私の1期上(兵71)で艦上爆撃機乗りだったが前年11月にフィリッピンで戦死(2階級特進して少佐)、3男の力さんは海軍経理学校の生徒で、留守宅は夫人、川口源兵衛大尉(兵66)と結婚された長女の正子さん、次女でまだ6歳の治子ちゃんの3人だった。

 私は時々、伊44潜艦長の源兵衛先輩(阿部牧郎著『キャプテン源兵衛の明日』、文芸春秋社刊がある)の酒のお相手、治子ちゃんのお遊びのお相手をした。

 海軍省人事局に2度ほど電話をして次の配置はまだでしょうかと尋ねた記憶があるが、2月に入って間もなく神戸の川崎造船所で建造中の駆逐艦・梨の艤装員(航海長予定)に発令された。(畠山中将は1月15日、第4南遣艦隊長官として赴任の途中、搭乗機が攻撃を受け戦死された。夫人が知らせを受けられたのは3月で、間もなく盛岡に帰られた)

 2月中旬の某日、神戸の艤装員事務所に赴き艤装員長(艦長予定)の高田敏夫少佐(兵64)に着任の挨拶をした。艦長は開戦後、駆逐艦・初雪、陽炎、軽巡・能代に乗艦、陽炎と能代とは最期を共にされたベテランだった。

 梨は2代目で、初代は2等駆逐艦、大正8年就役、昭和15年退役除籍となっている。2代目、梨は昭和19年と20年に建造された戦時急造型1等駆逐艦の1隻だった。松型(T型)と改松型(改T型)とあり、梨は後者だった。前者は18隻が完成、後者は14隻完成、9隻が未完成で終戦になった。福井静夫元技術少佐の『写真集:日本の軍艦』(KKベストセラーズ刊行)には次のように書かれている。

 「ソロモン方面の戦況により比較的小型低速で急造に適する駆逐艦が多数建造された。対空対潜兵器を重視した。1944年(昭19)春、さらに改め、徹底的な簡易船型で普通の鉄鋼材を使用、改T型と称した。その第1艦にちなんで橘型とも称する。性能良く被害に対して強靭、その兵装適切、簡易船ながら成功した艦である」

 長さ92.15米、幅9.35米、基準排水量約1289トン(梨の公試排水量は1460トン)、速力27.8ノット。兵装は12.7高射砲3門(単装、連装各1基)、25ミリ連装機銃4基、25ミリ単装機銃12基、61センチ4連装魚雷発射管1基、爆雷投射器2基。2軸で出力は19,000馬力。

 梨は前年の9月1日に起工し、この年の1月17日に進水して艤装中だった。私は1期下の宮原芳生艤装員(兵73、少尉、通信士予定)と弁護士である某氏のお宅に下宿して事務所に通った。市電によく乗ったが、軍人は無料だったように記憶している。夕食は艦長のお供をして水交社でとった。つまらないことは覚えているもので酒が一合ついた。

 2月19日、米軍は硫黄島に上陸、陸海軍の守備隊は1ヶ月近く奮戦したが、3月17日の総攻撃をもって組織的抵抗は終わった。その後硫黄島には戦闘機が配備されてB-29の護衛に当たり、また損傷したB-29多数が同島に不時着している。

 3月1日、宮原艤装員と主計長予定の内田博郎艤装員(経34、兵73相当)は中尉に進級した。

 

 就役、第11水雷戦隊に配属

 3月15日、梨は竣工して川崎造船所から海軍に引き渡され、第11水雷戦隊に編入された。艤装員長は艦長に、艤装員はそれぞれの職名をもらった。先任将校は砲術長の中村潤一大尉(兵67)、水雷長は原田盛之大尉(兵71)、主計長は内田博郎中尉、機関長は出田豊特務大尉。乗員数は士官9、特務士官7(兵曹長5を含む)、下士官64、兵204の計284名だった。

 11水戦は連合艦隊付属で「第1訓練部隊として瀬戸内海西部にあって新造駆逐艦の急速戦力練成に任ずるほか、一部艦艇は海上護衛作戦に協力」しており、司令官は高間完少将(兵41)、兵力は軽巡・酒匂、防空駆逐艦と呼ばれた宵月、花月に松型、改松型駆逐艦10隻余り、これに梨が加わったのである。

 梨は引渡しの翌3月16日、0700神戸発、1800呉着。神戸はこの日の夜、B-29の大規模な焼夷弾攻撃を受けている。

 3月19日、この日梨は0800に出港して大畠泊地に向かう予定だったが、午前7時過ぎ敵艦上磯(約350機)が初めて呉港の艦艇に攻撃を加えた。梨は高射砲、機銃を発砲しつつ、機関の準備を急いで出港、敵機が乱舞する中を1隻だけ出港したが、港内には戦艦・伊勢や空母・葛城などの大型艦がいたから攻撃されることはなかった。1600大畠着、11水戦と合同した。

 3月、4月の記録を見ると、訓練泊地は大畠から八島に移っているが、航海訓練は月に数回、日帰りで実施しているにすぎない。燃料が乏しいからだった。呉にはかなり長く停泊している。4月に沖縄への海上特攻作戦が実施されたが、梨は参加を命じられたものの、すぐに取り消されている。次のような経過であった。

 大本営海軍部は3月中旬に出した帝国海軍当面作戦計画要綱の中で次のように指示している。

 「陸軍ト密ニ協力シ 当面、作戦ノ重点ヲ東シナ海周辺特ニ南西諸島ニ指向シ 特ニ航空兵力ノ徹底集中並ビニ局地防衛ノ緊急強化ヲ計リ 来攻スル敵主力ノ撃滅ヲ期ス(本作戦ヲ天号作戦ト呼称ス)」

 本土防衛作戦についても指示があり、これは決号作戦と呼ばれた。この計画要綱に基づき豊田副武連合艦隊司令長官が出した3月17日の連合艦隊命令は、

「一.諸情報ヲ総合スルニ敵ハ近ク南西諸島方面ニ上陸ヲ企図シアル算大ナリ 

二.敵攻略部隊南西諸島方面ニ来攻セバ 陸軍部隊ト緊密ニ協力シ連合艦隊ノ全力ヲ挙ゲテコレヲ撃滅シ 南西諸島ヲ確保セントス」

とした上で各部隊に使命を与えているが、海上部隊については次のように下令した。

「一.第1遊撃部隊ハ警戒ヲ厳ニシ 内海西部ニアリテ待機シ 特令ニヨリ出撃準備ヲ完成ス 

二.航空作戦有利ナル場合 第1遊撃部隊ハ特令ニヨリ出撃シ 敵攻略部隊ヲ撃滅ス」

 

 海上特攻準備

 この連合艦隊の作戦は天一号作戦と呼称された。3月23日、沖縄に対する敵艦上機の大規模な空襲が始まった。豊田長官は25日、天一号作戦警戒を発令したが、翌26日には敵が沖縄で艦砲射撃と掃海を開始したため、やつぎばやに次の命令を発した。

 @ 「天一号作戦発動」

 A 「第31戦隊及び第11水雷戦隊(椿ヲ除ク)ヲ第1遊撃部隊ニ編入ス」        

B 「第1遊撃部隊、第2水雷戦隊、第31戦隊、第11水雷戦隊(可動兵力)ハ出撃準備ヲ速ヤカニ完成 内海西部ニアリテ待機スベシ」

C 「第1遊撃部隊ハ281200以降指揮官所定ニヨリ速ヤカニ出撃 主力ハ豊後水道 一部ハ下関海峡ヲ通過シ佐世保ニ前進待機セヨ」

 つまり梨はAによって大和の部隊に編入され、Bによって出撃準備を命じられたのである。Aによって編入されたのに関わらず、Bで併記されているのはおかしいが、この2つの電報の発令時刻は15分しか違っていないので錯誤を避けるためと思われる。

 梨の所属する11水戦の司令官は直ちに「当隊準備出来次第呉ニ回航ス」と報告、次いで指揮下の部隊に対し「直チニ出撃準備ヲ完成セヨ 当隊準備出来次第呉ニ回航ス」と下令した。梨は16時過ぎに八島泊地(21日に大畠泊地から移動)発、20時前に呉に入港した。つまりこの時点では梨も沖縄突入部隊の1艦だったのである(行き先は沖縄だという噂は入っていた)。

 その後梨を含む11水戦は除かれたのだが、それが何時だったかははっきりしていない。豊田長官は28日午前、「第1遊撃部隊ノ佐世保回航兵力ヲ大和、第2水雷戦隊(一部欠)及ビ第31戦隊(一部欠)トスル」と打電した。つまりこの時点では明らかに海上特攻兵力から除かれていることが分かるが、その前に第1遊撃部隊から除かれたのか、それともこの電報で除かれたのか不明である。この後、31戦隊も除かれることになるが、両戦隊を外した理由は練度不足であろう。梨は、最初の発砲で半分しか弾丸が出なかった(高田艦長談)くらいだから、就役から2、3週間では参加しても十分な働きは出来なかったと思われる。

 伊藤整一第2艦隊長官(兵39)の率いる第1遊撃部隊は28日呉を出港したが、特令あるまで内海で待機を命じられた。4月1日に米軍は沖縄に上陸、第1遊撃部隊の佐世保回航は取止められた。

 

大和沈没

 海上特攻作戦は4月5日に発令され、大和と2水戦の軽巡・失矧、駆逐艦8隻は豊後水道を出撃したが、7日に敵艦上機多数に攻撃されて大和、矢矧、駆逐艦4隻は沈没、損傷艦を含む駆逐艦4隻が辛うじて佐世保に帰投した。

 生還した森下第2艦隊参謀長(兵45)は4月13日軍令部において報告し、「突入作戦ハ周密ナル準備ヲ要ス 作戦ハ成算アル計画ナラザルベカラズ」などの所見を述べたが、第2水雷戦隊戦闘詳報の戦訓の項には次が含まれており、艦隊司令部、戦隊司令部のいずれも中央を強く批判している。

 「制空権ヲ有セザル艦隊ノ使用ニアタリテハ…イタズラニ特攻隊ノ美名ヲ冠シテ強引ナル突入作戦ヲ行ウハ 失ウトコロ大ニシテ得ルトコロ甚ダ少ナシ…思イツキ的作戦ニ堕シ 貴重ナル作戦部隊ヲ犬死セシメザルコト特ニ肝要ナリ」

 海軍省人事局長と軍令部第1部長は検討して次のような反省を書いている。

 「突入作戦ハ過早ニシテ…計画準備周到ヲ欠キ 非常ニ窮屈ナル計画ニ堕シタルキライアリ 作戦指導ハ適切ナリトハ称シガタカルベシ」

 

 梨は4月7日、呉発八島泊地に移動した。4月25日、海軍総隊が設置され、これまで連合艦隊と並列していた各方面艦隊、鎮守府、警備府などが総隊の司令長官の指揮下に入った。豊田大将(兵33)が総隊の長官となり、連合艦隊、海上護衛総隊の長官も兼務した。

 梨は泊地にあって主として停泊訓練を続けた。乗員には年配のいわゆる国民兵が多かったが、反復訓錬によって錬度は少しずつ向上していった。泳げない者も少なくなかったので、私が近くの海岸に連れていって水泳を教えた。最初は4月29日の天長節だったが、さすがに水は冷たかった。見張員と高角砲員、機銃員を集め、日米の航空機の絵を見せながら識別教育もやった。航海の機会が少ないのだから、航海長としては暇(ヒマ)だったこともある。

たまに神経を使ったのは、旗艦以下何隻かが停泊している泊地の所定の位置に投錨する時だった。投錨が終わってまもなく振れ回りが止まったところで旗艦から見ると、指定した位置からどれだけずれているか分かる。かなりずれていると、司令官や参謀の性格やその時のご機嫌にもよるが、「ヤリ直セ」とくる。となれば、ほっとしている甲板員も機関員もまた一仕事しなければならなかった。又、風の強い日に呉の岸壁に横付けする時は、艦長の腕の見せどころだったが、高田艦長の操艦ぶりは見事だった。

 

 海上挺身部隊となる

 5月20日、梨は僚艦の萩とともに第31戦隊の第52駆逐隊に編入された。この日海上挺身部隊が設けられて

指揮官は鶴岡信道第31戦隊司令官(兵43)、

兵力は第31戦隊と軽巡・北上、駆逐艦・波風で、任務は邀撃奇襲、輸送とされた。

31戦隊は

花月、

43駆逐隊(槇、榧、竹、蔦、椎、桐)      

52駆逐隊(杉、樫、楓、楡、梨、萩)

司令は杉谷永秀大佐(兵51)で、梨、萩が加わって6隻になった。

豊田総隊長官はまたこの日、「海上挺身部隊ハ内海西部ニアリテ訓練整備ニ従事スベシ」と令した。

 

 5月29日、豊田大将は軍令部総長となり、小沢治三郎中将(兵37)が総隊司令長官となった。米海軍と違って最後まで人事が硬直していた海軍は南西、南東の両方面艦隊長官が小沢中将より先任だったため、この両艦隊を総隊から外して大本営直轄としている。

 いつだったか、どの海面だったか忘れたが、一度訓練の為に爆雷を投下したことがある。魚の多そうな場所を航海長が選べということになって、海図をにらんで決めた海面に1個を投下した。驚いた事に忽ち付近の島影から十数隻の手漕ぎの漁船が集まってきた。魚の3分の2は沈むと聞いたが、それでも大きな鯛が一面に浮いてきた。梨が降ろした内火艇は小回りが利かないから、あらかた漁師にもっていかれたが、それでも結構拾えた。今からは想像も出来ない無茶なことが出来た時代だったのである。

 呉では当直の日以外はたいてい艦長のお供でレス、つまり海軍士官専用の料理屋に飲みに行った。呉は横須賀や佐世保と違ってレスも階級制?だった。少尉候補生は通称グリーン、中佐以下はラウンド(徳田)かロック(岩越)。私達が酒をさげて行ったのは専らラウンドだった。所轄長(巡洋艦以上の艦長や駆逐隊司令など、つまり大佐クラス)用としてフラワー(華山)があり、一度だけ隊の宴会で行った。更に将官用のグッド(吉川)があったらしいが、今だに場所も知らない。6月1日に私たち兵72期とコレスの機53期、経33期は、長期療養中の者を除き海軍大尉に進級した。

 大本営海軍部は6月、決号作戦の大綱を示した(案が6月12日付、大綱の正式な日付は不明)。作戦目的は「本土ニ来攻スル敵上陸船団ノ過半ヲ海上ニ撃破シ地上戦トアイマッテ敵ノ進攻企図ヲ挫折シ 以ッテ皇国ヲ悠久ニ護持スルニアリ」、作戦方針は次ぎのようになっていた。

 1.帝国海軍ハソノ全力ヲ緊急戦力化シ特ニ航空兵力ノ実動率ヲ画期的ニ向上セシムルト共ニ航空関係並ビニ水上水中特攻作戦準備ヲ促進ス

  右作戦準備期間 敵空襲ヲ予期シ極力本土所要ノ枢要部特ニ生産 交通並ビニ作戦準備ヲ援護ス

 2.敵上陸船団本土ニ来攻セバ 初動約10日間ニソノ来攻隻数ノ少ナクモ 半数ハコレヲ海上ニテ撃沈破シ 残敵ハ地上ニオイテ掃滅シ得ルゴトクス

 3.前項作戦実施ニ当タリテハ ソノ他一切ヲ省ミルコトナク 航空及ビ水上水中特攻ノ集中可能全力ヲモッテ当面ノ撃滅戦ヲ展開スルモノトシ凡百ノ戦闘ハ特攻ヲ基調トシテコレヲ遂行ス

 いかに軍事的にも末期的症状を呈していたとはいえ、大本営の出す作戦方針に「特攻」の文字が繰り返され、「凡百ノ戦闘ハ特攻ヲ基調トシ」には暗然たらざるを得ない。これではもはや「特攻は統率の邪道」などとは言えないではないか。そして若者に命を捨てることを求めている中央の起案者、命令者が特攻になることはないのである。

 尚ここでいう「水上特攻」は震洋艇を指し水上艦艇ではない。

 6月22日梨は小積(屋代島の東岸沖)に停泊中、呉に向かうB-29の大群を認めて発砲した。

 

 呉炎上

 梨が呉の岸壁に係留していた7月1日から2日にかけての夜、私は当直将校で在艦の先任者だったが、B-29152機)が街に焼夷弾攻撃を加えた。機関科から出港するかどうか指示を求めたので動かないと回答した。艦長、先任将校は不在だし、B-29の目標は街であって在泊艦ではないという判断もあったからだった。

 街のあちこちで火の手が上がり、次第に大きくなっていく。低高度で侵入してくるB-29の機体が赤々と照らされるようになった。だいぶたってから乗員が次々に駆け戻ってきた。やがて帰艦した艦長の命令で出港、江田島沖に投錨した。

 2日昼ごろ、艦を元の岸壁に係留して艦長のお供で街に出た。中心部は殆んど消失していた。呉には7月11日まで在泊したが、水交社もレスも焼けてしまったので飲みに行くところがない。私が声をかけて高田艦長、宮原通信士ら数人と毎晩のように一升ビンを下げて呉市川原石の大田実少将(兵41)の留守宅に押しかけた。少将は前月に沖縄で戦死され(訣別の電報はあまりにも有名である)、夫人は前月13日、ご主人が自決された直後にご存じだったから、正確には大田中将未亡人宅だった。

 すでに長女で私と小学校同級のみどりさんは中島忠博大尉(機50。兵69相当)に、次女のすが子さんは村上光功大尉(兵69)に嫁ぎ、夫人は3女で女学生の愛子ちゃん(のち板垣欽一郎氏(経34。兵73相当)夫人)以下9人のお子さんを抱えておられたが、いつも明るく歓迎して下さった。夫人は私が小学生の頃から可愛がって下さった「大田さんちの小母さん」だった。

 のち夫人の実家を継いだ落合o君(3男。湾岸派遣掃海部隊指揮官、一術校長などを歴任、幹候14期)は6歳で、末っ子つまり11番目の豊君(4男。沖縄基地隊司令などを歴任、幹候19期)は生後2ヶ月だった。(大田家については田村洋三著『沖縄県民斯ク戦ヘリー大田実中将一家の昭和史』講談社刊があるが、昨平成1510月に青山淳平著『海にかける虹―大田中将遺児アキコの歳月』がNHK出版から出た。アキコ(昭子)さんは4女でニュージーランド在住。平成12年瑞宝章を受勲。ニュージーランドを訪問した練習艦隊を毎回歓迎してこられたが、昨年は公務で訪日中のため歓迎出来ず残念がっておられた)。

 梨は7月3日から9日まで呉のドックに入り、後甲板に回天(人間魚雷)1基を搭載できるようにした。大和を建造した大きなドックだから底の方にちょこんと座っている感じだったが、夜遅くご機嫌な艦長の肩を抱いて手すりのない石の階段を降り、たどり着くまでは苦労した。

 

  対空戦闘

 7月15日、艦隊の編成替えがあり、海上挺身部隊である31戦隊は次の編成になった。司令官は1日付で松本毅少将(兵45)が代わっていた。

 花月、

41駆逐隊(夏月、冬月)

43駆逐隊(槙,、榧、竹、蔦、椎、桐、宵月)

52駆逐隊(杉、樫、楓、梨、萩、樺)

 この部隊への7月の割り当て燃料は僅か850トンにすぎなかった。松型は燃料を370トン積むから、これでは2隻分とちょっとである。このため動くのは梨、萩の2隻のみとし、あとは海岸付近で偽装し、乗員は交代で梨、萩に乗って訓練することになった(結局、他艦の乗員が乗ってくることはなくて終わった)。総隊司令部が案画した海上挺身部隊の作戦要領は次のようになっているが、いつ案になり、いつ命令になったのか分かっていない。

1 内海西部伊予灘北方の島嶼岬角を利用して完全遮蔽する。

2 主として夜間行動をもって到達し、かつ夜戦を遂行し得る限界以内の上陸点に対し、敵入泊後、航空部隊の攻撃に策応して作戦するものとし、内海西部祝島を中心とする行動半径180マイル以内と予定する。

3 各駆逐艦は回天1―2基、花月は8基を搭載、交戦前極力来攻部隊に接近して回天を発進せしめたのち、挺身部隊は主として敵輸送船団を求め、夜戦をもって決戦する。

4 使用燃料

  兵力の1.5撃分とし約3500トンを呉方面に確保する。

 

 梨は7月11日に呉を発し、13日には光沖で伊157潜が発射する回天の目標艦となった。次いで回天突撃隊のある平生沖に移動、14日から16日まで回天を搭載して発射する訓練を4回実施した。16日呉着、19日光沖に移動し、20日伊36潜の回天発射の目標になった後牛島沖泊。24日松永司令が梨に乗艦、司令駆逐艦になった。この日再び伊36潜の目標艦になった後光沖、次いで牛島沖に移動した。

 2425の両日、敵艦上機の大群が西日本に攻撃を加えた。25日牛島沖にあった梨はグラマンF6F 10数機と、時間を置いてさらに5機と交戦した。両側が山だったからいずれも艦首の方向から来襲したが、高田艦長は後年次のように語っている。

 「…その時2機撃墜したんですが、夕方になって島の村長さんが魚や果物を一杯持って漁船でやって来たんですよ。『どうしたんですか?』と聞いたら、本当の戦争を見て感激したと言うんですね。そして6機も落としたと言う。2機でしょうと言ったら、いや、山の向こうに更に4機が落ちていたと言うんですね…」

 

6機撃墜が事実なら、機銃員たちは殊勲甲である。日没近くになって敵のPBY飛行艇(カタリーナ)が着水して撃墜された搭乗員を拾ってから飛び去った。高射砲の射程外であり、もう少し近ければと悔しい思いをした。(終戦直後にタイプされたらしい中島潤一氏(先任将校)報告という文書があって、この日50機と交戦して4機撃墜となっている)翌26日平郡島の畑尻鼻沖に移動して萩、椎、樺と訓練を実施した。

 

 最後の戦闘

 7月28日は朝から敵艦上機の飛来が続き、ロケット弾を打ち込もうとするF6Fと何度か対空戦闘が続いた。この間、梨は停泊したままだった。後に艦長談で知ったのだが、高田艦長は抜錨して走り廻ることを進言したが、司令が停泊のままと主張したので従ったとなっている。

 午前中は中部に数発の命中弾と多数の至近弾を受けたが、大きな被害はなかった。艦橋後方の旗甲板に落ちた1弾が原田水雷長の体を直撃、爆発はしなかったが、水雷長は戦死した。前年、唯一40ノット強を出す駆逐艦・島風が11月にレイテ輸送に赴いて沈没(兄が砲術長で戦死)した際の数少ない生き残りだったが、梨では不運だった。

 午後になって後部に数発の命中弾を受けた。後部12.7センチ高射砲と爆雷を置いた架台の間の甲板を貫通して爆発した為船体は大きく損傷、小規模の火災が発生した。そのうち爆雷に火がついて紫色の炎を吹き出し始めた。爆燃といわれる現象で、爆発したら一巻の終わりだと思いながら見ていたが幸い爆発はしなかった。

 しかし後部が徐々に沈下すると共に次第に右への傾斜が増大、総員退去が令せられた。最後は右に横倒しの形になったあと沈没した。午後2時頃だった。高田艦長は船腹の上に仁王立ちとなって乗員が艦長、艦長と呼ぶ中を最後に水に飛び込んだ。私はそれを見てから岸に向かったが、たちまち3、4人の乗員にしがみ付かれて4、5米の深さまで引き込まれた。これでは共倒れだから、やむなく1人ずつ振りほどいて浮上したが、彼等はどうなったかと心が痛む。村の義勇隊の人達が救助艇を2隻出して多数を拾い上げているから救われたと思いたい。戦死者は38名だった。

 岸に泳ぎ着くと握り飯と熱々の味噌汁が振舞われた。朝からほとんど何も食べていなかったからか、これほど美味い食事はその後、口にしていないような気がする。士官は浄光寺というお寺に、下士官兵は分散して民家にお世話になることになった。

 1晩泊めてもらう積もりだったが、浄光寺本堂でノミに食われて寝つけない内に、深夜萩がやってきて投錨。同艦のボートと義勇隊の再度の尽力で生存者を収容した萩は出港、翌29日呉に入港した。

 お世話になった義勇隊について、『平郡島史』には次のように書かれている。

 「高野浦沖に停泊中の駆逐艦2隻に対し昭和20年7月28日午前7時前より敵飛行機の編隊50余機襲来戦闘を開始した。1隻の駆逐艦(注・萩)は早くも西方に避退した。爆撃の音、砲声いんいんと轟き砲弾の破片は部落にまで飛来した。敵機は次第に増して、その数100機以上となったが、わが駆逐艦(注・梨)は奮戦敢闘よく応戦し午後2時を過ぎる頃までは持ち応えたが、ついに爆沈の運命にあった。

 …義勇隊は救助船2隻を出動せしめ、近藤清藤が指揮官となって救助に努めた…准士官以上は浄光寺に、下士官兵は20余名ずつに分け各部落において収容した。この夜半僚艦(萩)入港して、これら乗員の収容に義勇隊員の活躍もひとかたならぬものがあった」

 なお正式の名称は国民義勇隊で、16歳以上の男子392人、女子495人の合計887人で平郡島大隊(3個中隊)を編成、うち男子302人、女子227人、合計529人を以って2個戦闘中隊を編成した、となっている。

 先ほど、艦長は動く、司令は動かないでもめ、結局司令に従って停泊のまま戦闘したことを述べた。しかしやはり司令の指揮下にあった萩はさっさと動き出しており、梨は単艦なのだから艦長の意向で行動してよさそうに思える。ただ、この頃は、動くか動かないは難しい問題だった。動いている目標は上空からすぐ分かる、つまり敵機を誘引するからじっとしていた方がいいという考えもあった。萩は残り、梨は沈んだから停泊のままは、間違っていたというのは結果論と言える。

 後の高田艦長談は「けれど結果的には、どちらがよかったかは分かりませんね。かえって停泊していてよかったかもしれません」となっている。岸が近かったし救助艇も来たから、生存者が多かったということかもしれない。

 戦闘に自信のある艦長は、しばしば司令と衝突して、傍ではらはらした事が何度もあった。当時艦長から聞いたが、以前同じ部隊にいて、その時からソリが合わなかったそうである。何しろ沈没する間際には総員退去の時機でもめ(これも艦長が命令する事項であろう)、泳いで上陸してからは乗員を何処に収容するかでもめたのだから徹底していたと言うべきか。13年先輩の直属上司にタテつくのであるから相当なサムライだが、私は艦長を尊敬していたし、可愛がって頂きもした。

 

 沈没時の回想

 まず高田艦長談であるが、これは36年後になされたものである。

 「7月28日の8時頃から1時間おきに30機ずつ5回来襲しましてね。その頃はロケット弾に変わっていましたね。始めの3回までは全然こっちに当たらないんですよ。これはうまくいったと思いましたね。

 ところが機銃員が疲労してきましてね。疲れると当たりだすんですよ。11時頃になって2、3発命中して機銃員が吹き飛ばされたんです… 致命的だったのは最後の第5波が来た時、1発のロケット弾が後部弾庫に命中したんです。…そのうち爆発も段々大きくなってくるし、もうこれまで、と思いましたね。結局総員退去を命じて、乗員が皆海に入ったところで爆発しましたね…」

 先に触れた中島先任将校の報告は「安下庄(あげのしょう)西方(平郡島東方)錨地ニオイテ敵艦上機延ベ100機ト交戦沈没、敵機2機撃墜」とあって、手書きで100機に50を加え、撃墜2機を数機に訂正してある。

 命中したロケット弾は約10発だったが、至近弾による右舷水面下の多数の破口が沈没にかなり影響したのではないかと思われる。次に乗員の回想記から一部を引用するが、何時ごろ書かれたものかはっきりしない。

 千葉魚暁・2等機関兵曹

「敵艦載機来襲、直ちに戦闘配置発令、電話室につく。梨より高射砲、機関銃が鳴り響く。その時敵弾が機械室にカンカンと当たる。後部缶室よりの電話が切れ、間もなく上甲板に爆弾が炸裂して2米くらいの穴があいた。その時には発電機が故障して停電となり、機械室は真っ暗となった…。」

 船橋一・上等水兵

「朝食頃であったか、対空戦闘のラッパが鳴り響きました。何回目かの戦闘かは忘れましたが、前部マストと後部マストの間に張られたアンテナが切断され、その補修に初年兵が当たることになっていて、細いマストの高さ18米まで登り作業をするのですが初めての経験であり、いつ敵機が攻撃してくるか分かりません。ようやく復旧した時は、少しは慣れて、近くの島々が美しく静かに浮かんでいるように見えました。

 昼食は乾パンとカルピスですましましたが、午後になって突如物凄いショックを受けました。…室内が真っ暗になりました。後部に被弾し発電機室がやられたのでした。艦内での電信業務ができなくなり、平郡島の海岸にあった小舟で移動用送信機を持って電信兵4名ほどが上陸、無線連絡をとることになり私もその一員に選ばれました」

 

和田一雄・1等水兵

「私は7月28日に朝の食卓当番に当たっていました。その時配置につけのブザーが鳴りました。私は1番砲でしたのですぐ配置につきました。やがて艦載機が3、4機と思いますが、梨に突っ込んできました。その時、手を見ると、手の甲から血が噴き出ていました。

 負傷した者は手当てをしろと言われましたので、医務室に行くと足のない兵隊がいましたのでびっくりしました。…退去命令が出たので私は海に飛び込みましたが、島の方からきた小舟に助けられました…」

 

 遠藤時夫・水兵長

「米軍グラマン戦闘機数10機の空襲を受ける。数分後、第2回目の空襲を受け数発の直撃弾により火災が発生し、戦闘能力を失っていった。艦は傾き後部甲板から海中に姿を消した。多数の乗員が海に投げ出された。助けを求めながら艦と運命を共にした戦友の姿が思い出されます…」

 

 柴田四郎・上等機関兵曹

「1缶総員戦死と報告して間もなく、総員上甲板に上がれと命を受け、昇降口のハッチを押し上げ甲板に出た時多くの戦死者を見ました。…ああ今度突っ込んできたら、おれもこのようになるのだろうか?それだけが脳裏をさまよいました。…ここでも左足の膝から下を失った1人の兵が涙声で柴田兵曹、仇をとってと言いました。どう言ってよいやら返答のしようもありませんでした…。」

 

 酒井勲・2等機関兵曹

「7月28日当日の想いは筆に書けるものではありません。掌機械長の士官室通路での、あの悲痛な叫び声がまだ聞こえます。上甲板の血の海、小学校唱歌にあった『勇敢なる水兵』あのままのこの世の地獄というか修羅というか…こんなことがこの世にあるのかと思いました。私は高田艦長の許可を得て前部缶室の負傷兵2名を通船に乗せ、陸上に向かい中間まで漕いだ時、梨の最期の姿を見届けました…。」

 

 岡一男・上等兵曹

「急遽、艦橋上部にある戦闘部署に駆け上がる。ほどなく掛津島上空方向より敵機グラマンが襲いかかる。砲術長の指示に従い目標を捕捉、照準器に入れる。つるべ落としに降下する敵機の機銃弾の閃光の間の、ひときわ大きい閃光がロケット弾で、直撃弾を受けるたびに艦が一瞬大きく揺れる。

 第2回目の空襲で機関部に直撃弾を受け、…動力の機能も破壊された。後部砲塔付近も直撃弾により火災発生、付近に積んだ石油缶などが誘爆によりポンポンと発火し、海中に落下するのが望見された。機械室の火災により大量の煙と蒸気が立ち昇る。…懸命に泳ぐうち島民の小舟に救助され平郡島に上陸できた…。」

 

 谷本義夫・水兵長

「対空戦闘の号令で後部連装高射砲の配置につき、撃ち方始めで応戦、砲弾が遅いので弾庫より10発ほど高射砲の後部に並べ戦闘中、敵機の攻撃を受け砲弾に命中し、多数の兵士が負傷しました。その後の攻撃でも単装25ミリ機銃員が多数死傷しました。」

 

 乾研一・1等水兵

「3個目の編隊も通過するだろうと思っておりました。その時、自分の後ろにおられた田中兵曹長が、あの1番機、と指揮棒で示されたのと同時に、1番機が急降下してバリバリと攻撃して来ました。ふと後を振り向くと田中兵曹長が片足を撃たれて倒れておられました。1回目はたいしたことなく攻撃が終わりました。すぐ飯缶(バッカン)を手にして主計室に行きカルピスと乾パンを受け取り、機銃台で戦友とともに分かち合い、よかったねとともども語り合い朝食をすませました。

 …米田兵曹は、身体を東に向けてくれ、本艦は大丈夫かと一言、言って息が絶えました。…敵機も勇敢に急降下してきました。白いマフラーも顔もはっきり見えました。甲板上は血の海で負傷者の悲惨なうめき声が、今だに耳に残っております。

 …少々本艦を離れてバンザイ、バンザイと、ともども叫んでおりましたが、艦長が最後まで艦に残って、艦が棒立ちになる寸前に飛び込まれました…。」

 

 恩田昌則・上等水兵

「艦橋に電報を持参したら戦死者の上に旗がかけてあり、周囲の鉄片や肉片が思い出されます。後部高射砲台に直撃弾が落ち、黄色い煙と大火炎の吹き上げる色、艦がそのたびに大きく揺れ、作業員が大声で走り回る。

 …島に上がってから婦人会の人々が出掛けて下さり、民家に収容され夕食にオカユと芋を2、3個もらって食べた事を、今でも美味しかったと思い出します。」

 

宮原芳正・通信士

「機械室からは白い煙(蒸気?)が甲板に吹き出し、甲板上には負傷者、戦死者が横たわっていた。…主砲その他の電気系統がストップしたため、照準もままならず、応戦も十分には出来なかった。

 艦橋にあって応急措置を指示していた水雷長、原田大尉は旗甲板で敵機のロケット弾の直撃(破裂せず)を受け即死される。各部から浸水が報告されていたが、高田艦長が大声で、まだ